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ソ連

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少し前、速水螺旋人「靴ずれ戦線」という漫画に手を付けまして、速攻でお気に入りに加えられました。

速水螺旋人氏を知ったのは富永浩史作品経由(「小説 馬車馬戦記 ディエンビエンフー大作戦」)で、富永浩史氏はあさりよしとお作品経由(挿絵で見つけた「俺の足には鰓がある」)です。

コラムの異様な情報量も特徴の一つですが、その中でソ連でフィアットやペプシがライセンス生産されていた、と書かれていたので驚きました。

ソ連解体当時の私は17歳。国際情勢に特に興味を持ってはいませんでした。基本的には衆愚的な「悪い国」でしかなかったと言っていいでしょう。従ってソ連が実際の所、一般市民レベルでどういう国だったのか一切知らずにおりました。

ロシア文学も全く知りません。最近になって囓り始めましたが、一冊目が「ロシア怪談集」(河出文庫)ってのは我ながらどうかと思います(汗

というのは平たく言えば、速水・富永両氏の土台を知りたいなあ、と漠然と思っているからでしょう。私の数少ない中学以前の読書歴には神話というのがありまして、そこ派生のものは大体好きです。幻想文学、ホラー、土着の神様・妖精その他諸々。

神話に興味を持ったのは、ファンタジーRPGのモンスターを解説したパソコン雑誌記事や書籍だったでしょうか。「RPG幻想辞典」(ソフトバンク)は今も書棚にいます。

ですので「靴ずれ戦線」や富永氏のデビュー作「ルスキエ・ビチャージ/死天使は冬至に踊る」は興味津々の内容ですが、「バーバ・ヤガー」という魔女がムソルグスキー「展覧会の絵」の第9曲にあったことにも先ほど気付いたばかりです。

その「展覧会の絵」はPC-8801mk2付属デモのBGMで知りました。「プロムナード」「キエフの大きな門」が使用されていまして、もう1曲がバッハの「バディネリ」ですが、それはつい最近突き止めたところです。

私が持っているポリドールの交響曲版CD(アバド指揮)では「バーバ・ヤーガの小屋」は「キエフの大きな門」に間髪入れずに繋がっていますから、しばらく聞いていませんでしたがよく覚えている曲でした。

民話ならソ連が遠くなっても関係のない伝承の話ですが、それとてあまり見つからず。「ロシア英雄物語」(平凡社)とか「ロシア民俗夜話」(丸善)とか、いずれも絶版です。日本にロシア人は結構いますから、もっと知りたいものですが。

キリスト教と共産主義によって民間伝承がかなり失われているとも聞きますね。残念なことです。

ましてソ連自体の話となるともっと厳しいでしょう。世界史レベルの話以外に関心を持つ人は極めて少数だろうからです。そもそも日本語の本がどれだけあり、どれだけ現存しているのか。

試しに「ソヴェートの市民生活」(弘文堂)なる古い本(終戦直後のアテネ文庫)の復刻を読んでみたところ、美化することなく淡々と書かれていてなかなか面白いものでした。格差も結構あるよとか、結婚観はこんな感じだよとか。

ただ何しろ物資不足の時代に苦労して発刊された薄い本なので、非常に駆け足になっています。また、1949年の内容だというのも考慮の必要があるでしょう。

もうちょっと新しい本はいずこ。「ルポ・ソビエトNOW」(読売新聞社/1983)なんかどうなのでしょうね、と思っているところです。

水妖記

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タイトルでARIAを思い出し作者でゼロ魔を思い出し。きっかけが二つもあれば手に取るわけですが、挫折しました。

私が攻撃されてるみたいで辛い。いや「みたい」ではなく直撃です。息苦しい。具体的イメージこそありませんが、まるでフラッシュバックです。人格破綻者には「切ない物語」ってのがまるでダメらしい。

もちろん挫折したのは11章「ベルタルダの聖名の祝日」。巻末解説を読む限りは、ウンディーネが魂を得たことは、それでも幸せだと語る16章がクライマックスらしいのですが、その前の破壊力の壁が厚すぎます。

離婚だの肉親間のいざこざだの、著者自身の経験が反映されている部分があるとかで、だとすれば私が辛いのは必然かもしれません。

でも立ち読みの段階で巻末解説を開けばネタバレに遭遇するリスクがありますから、今回は不慮の事故になるでしょうか。フーケー並びに翻訳の柴田氏ごめんなさい、今の私には読めませんでした。

夜の声

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だって幽霊船ですよ?

W.H.ホジスン「夜の声」を読みました。19世紀~20世紀をまたぐ頃合の海洋ホラーで、サルガッソーネタの短編が山盛り。幽霊船、巨大海洋生物、全く未知の生物、海底の隆起...。

もちろん表題作、映画「マタンゴ」の原案とされる作品を目当てに購入しまして、これも良かったですが、船の作品はもっと好きです(「夜の声」はどちらかというと無人島ネタ)。

良いですね船の作品は。ポー「アーサー・ゴードン・ピム」も好きですが、古めの作品に登場する「海」という舞台は、当時の好奇心とスリルをめいっぱいに表現していて大好きです。

今でも海の生物のことはよくわかっていないのに、なまじ地球の形がわかっているものだから、たとえ同じように船で乗り出しても、文学作品として色あせた感じがして残念です。深海がまだ現役ですが、ネタとして偏りがあるような。

さて、私の場合は名前としては「バミューダ三角海域」の方が脳が反応しますが、サルガッソーはここに含まれるようです。実はハミルトン「キャプテン・フューチャー」で「宇宙のサルガッソー」として知った方が印象が強かったりします。

海底隆起は未知の島ネタですので、ラヴクラフト「ダゴン」も同系統になるでしょう。他でもないこのホジスンがコズミック・ホラーの祖となるそうです。

他、「幽霊狩人カーナッキ」という、当時の探偵もの(ホームズの時代!)として数少ない個性派だったらしいシリーズの先鞭となる作品も。興味を持ったので入手しようとしたところ、新品ではほぼ入手不能でした。

最近の本は買い逃すと手に入らないようで。古書を当たると旧刊は比較的よく出てきますが、新しいものほど少なくともネット上に出てきません。在庫管理がおざなりな某全国チェーンが原因の一つかとも思いますが。

その全国チェーンも含めて、やはり足繁く古書店に通わなければならないということでしょう。SFやホラーの再版はマイノリティなのでしょうね。「たんぽぽ娘」あたりはテレビドラマで扱われたこともあって話題になったようですが。

ハーモニー

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伊東計劃氏の名前を知ったのは...ネット上の口コミだったと思います。何となく「才能を惜しむ」空気があったのは覚えていますが、故人になっていたとは知らずにいました。

最初に手に取ったのがこの「ハーモニー」でした。

読み始めの印象はあまり良くありませんでした。XMLタグが奇をてらいすぎに見えましたし、「生命主義社会」が現代日本の風刺として鋭いとは思ったものの、自殺を目論む少女たち、なんて飽きるほど見た題材でしたから。

でもこのXML風の表記、実は既に使っているんですよね。古くは"(笑)"、悪癖だと思いますが最近では語尾の"w"といったものがそれに当たるでしょう。同じ言葉でも込める感情や口調で受け取り方が変わるものです。声と文字の違いを何とかしようとした試行錯誤がそこにあります。

昔は"(爆死)"とか"(ぉ"とか他にも色々ありましたね。今も特定方面では"(迫真)"とか使っているようですが(震え声)。

以下、ネタバレありです。


というわけで、社会批判の面から維持された好奇心で読み進めました。過去のミァハとその影を背負っている現在のトァン、この二人の切り口だけでも面白いのですが、批評だけなら小説である必要はないわけで。

最初にやられたのはキアンの通話記録のシーンでした。生命が公共リソースとして認識されている以上、死んだと言われたなら確実にミァハは死んだのだろうと思っていたのですが。

冒頭の方で「ミァハとの再会」と確かに書いてはありましたが、比喩だと思ったのです。そっくりの考えを持つ別人や、冴紀ケイタが言っていた「肉体を捨てた精神」としてとか、少なくとも同じ肉体を持った状態で生きているとは考えもしませんでした。

この辺の展開力が恐らく、未読ですが「虐殺器官」でミステリーの賞をも取った理由なのでしょう。

SFらしい架空理論としては、冴紀とガブリエル・エーディンとが解説するところの、意志に関するモデルが中盤でようやく登場します。これがまた説得力がありまして、これを根拠として現代社会を突き詰めた未来を構築したのが本作なのです。

ところで「今の一万クレジットと一年後の二万クレジット」というエーディンの問いに、私は迷うことなく瞬時に後者を選んだですよ。冷静なのは健全ではない場合もあるので、もうちょっと人間味のある思考ができるようになりたいですね。

文明の歴史は自然を克服する歴史。肉体を、病を全て克服できたとしたら、次は精神を克服することになるだろう、というのがテーマになっています。意思が魂だとかいう特別で至高なものでないとしたら。

たとえ脳科学者でも、自分の意識を電流の流れが作る無味乾燥なものだと思っている人はいない、とどこかで読んだ気もしますが、そういう保守的な発想は得てして、後の世代には無意味になっていくものです。時間と共にタブーは薄まっていきます。

果たして現実の世界が精神をも克服しようとするかどうか...。するでしょうね。今のところ精神科の医療は薬が主役です。効率的な方法がそれしかない事情はあれ、簡便な方法が存在すれば必ず容易く使われます。まして作中のように、大義名分があれば止まるはずがありません。

私自身は精神は至高なものだと思っています。この手のものは、なくしかけた人間の方が大切さを説き、そしてそれが理解されることはあまりないのですが。知る人と全く知らない人との断絶は、未来永劫埋まることはありません。

作中では全人類から意識が消失して完璧なハーモニーを奏で...ません。WatchMeの導入率は8割ですし、意識の消失はあくまで後天的なものです。果たしてWatchMe導入前の子どもは、完璧な親とどんな軋轢が生じてしまうのか、多少興味があるところです。

また残された疑問が一つあります。ミァハがなぜキアンを自殺させたのか。ミァハの目的は老人たちに「ハーモニー・プログラム」を発動させることであって、そのためにテロ(本来の意味で)を起こす必要がありました。

キアンが選ばれたのはランダムな結果だと言うのですが、その結果数千人のリストを確認したのはなぜか、たまたま目に入ったとしても、わざわざ話しかけたのはなぜか。

彼女らの組織であれば、キアンがあの錠剤を飲まなかったことを調べられたでしょうが、単なるささやかな復讐だったのか。或いはそうすることでトァンと会いたかったのかもしれない、と思ったりするのでした。


ところで、本筋とは関係ないのでしょうが、登場人物の名前がケルト神話なんですね。細部をすっかり忘れてなお、そんな気がした自分を褒めたいです(何。早速、井村先生の文庫本をひっくり返しました。

ケルト神話では、ギリシア神話のように時代と共に5種族の人間が登場しますが、トァン・マッカラルは最初の種族パーホロンの生き残りで、転生しながら5種族の全てを見て、それを今の人間に伝えた人物です。

他、メジャーな登場人物は5種族の4番目(トゥハ・デ・ダナーン=ダーナ神族)です。以下は全てダーナ神族になります。

ヌァザはヌァダの表記が一般的ですが、魔剣を持つ戦神でダーナ神族の王です。一つ前の種族(フィルボルグ)との戦いで片腕を失い、一時期は銀の義手を付けていました。義手の間はしきたりに従い王位を譲っていましたが、治してもらって復位しました。

ヌァダの腕を元通りに治したのが医術の神ミァハです。同じく医術の神ディアン・ケヒトの息子で、実は義手を作ったのがその父ですが、成果を妬んで殺されてしまいます。その際、自らを3度治し、4度目で遂に死にました。

キアンはキァンと表記されますが、ヌァダの次の王、太陽神ルーの父です。フォモール族との戦いの前に、助力を求めに行く途中で、トゥレンという一族の兄弟に殺されます。でも、スコットランドにコラン・ガン・キァンという首なし妖精がいるようで、自殺シーンに合わせてそちらかもしれません。

エーディンは絶世の美女ですが、本作のストーリー的には特に隠喩もなさそうです。ダーナ神族ミディールの妻でしたが、蝶に身を変えさせられている間に1000年以上過ぎ、再び人間になってからはアイルランド王エオホズの妃となりました。

夢の国

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夢の国といったらディズニーランドを連想するのが普通でしょうが、ラヴクラフト的にはランドルフ・カーターらが活躍する舞台です。

その最長編「未知なるカダスに夢を求めて」に登場する夜鬼(ナイトゴーント)やシャンタク鳥が「這い寄れニャル子さん」に出ていますが、実は私、読んでいませんでした。

というか食屍鬼としてのピックマンもこっちなのですね。「ピックマンのモデル」の頃はまだ人間でしたし、ガグも出てくるこちらでないとピックランドは理解できません。

どうも最初にクトゥルーとして一連の作品に興味を持ったため、青心社「クトゥルー」に当時(11巻まで刊行)未収録だったので見逃したようなのです。その後13巻に収録されたのですね。

最近になって、同時期に買っていながらあまり読んでいなかった創元推理文庫「ラヴクラフト全集」で読んで感動したところ。

ランドルフ・カーターといえば、ラヴクラフトの分身と言われる人物の末路が「銀の鍵の門を超えて」のあれというのは、割り切っているのか破滅的なのか。

ハッピーエンドなんぞあり得ない世界を描く人ですから、宇宙的な知識を地球に持って帰るなど夢の世界以外ではあり得ず、妥当な結末ではありますが。

夢の国には「先輩」と呼べる人もいましたから、カーターも今はズカウバから離れヤディスから戻り、夢の国で暮らしているのかもしれません。

這いニャル8巻は来月発売です。残業が続くと通勤電車はラノベでも読まないとやっていられません。待ち遠しいです。

Sacrifice

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「たったひとつの冴えたやりかた」という言い回しを時々目にしていました。至近では「よくわかる現代魔法」だったでしょうか。妙に存在感のある表現を複数の人が使っている時、そこには大抵元ネタがあるのです。

極限状態の選択を描く「方程式もの」という作品群があるそうな。極限状態なら何しても許されるんと違うかな、と他人事視点で見る限りは単にあざとい設定でしかないので、どれだけ感情移入するか(させるか)で評価が大きく変わるでしょう。それでなのかどうか、代名詞になったトム・ゴドウィン「冷たい方程式」も本作と同じく、少女が標的となっていたようです。

本作は、初めて宇宙に出た夢いっぱいの少女コーティーが、救済不能の状況に陥ってしまい、その中で一番マシな方法として死を選択するという、まことに救いのねぇ話となっています。表題そのものの汎用性もあるでしょうが、女の子らしさが存分に表現されているのと、友達になった宇宙生物シロベーンもろともに死ぬ結末によって、語り継がれているのでしょう。

文庫には三編収録されていますが、少し長めの「衝突」も印象的でした。公式のファーストコンタクト以前に、ならず者による不幸な接触があったとしたら、誤解を解くのに大変な努力が必要でしょう。地球上でも繰り返されていることです。

この作品では思念の領域という変わったものが設定されています。これに従って考えると、人間が自分を人間だと普通に認識できているのは、人間が集まることで発せられる思念が我々を覆っているためである、となります。その領域に異邦人が踏み入ると、「こういう姿でこう振る舞わねばならない」というプレッシャーを感じるとか。

海外を旅行すると、言葉だけでなく自分の服装、肌や髪の色、といったものに当然ながら違いを感じるわけですが、それをもっと強調した概念でしょうか。宇宙船の乗組員がそれを感じ、思念との仮説を立てた時、「人間も実は同じことをしているんじゃないか」と反応するのですが、「できる」でなく「している」なのが興味深いところ。

作風や特にSFガジェットに古くささがありますが、「衝突」は万人にお勧めできるのではないかと思います。

創世記機械

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スターウォーズ計画が現実味を帯びていた時代の作品です。衛星軌道上に配置された核ミサイル網のある世界で、最終戦争に向かう情勢の中、兵器への転用が可能な画期的発見をした科学者を通して、科学と社会・政治の関わり方を描きます。

統一場を説明できそうな理論を主人公クリフォードが発見するところから物語は始まります。相棒オーブは現実的で、好きなことをさせてくれれば何でもよく、約束した見返りは適度に返す余裕もある人ですが、クリフォードは潔癖症で口出しされるのが大嫌い。先人であるツィンメルマンは、政府と適度に付き合えと助言するのですが、兵器転用を要求する過度な介入に業を煮やしたクリフォードは、ついに戦争を終わらせるための協力を申し出るのでした...。

統一場理論は物理学の4つの力を一つの法則で説明するもので、今も君臨する難問となっています。作中では高次元から説明する架空の理論が設定されています(超ひも理論も高次元でしたね)。我々の三次元空間では粒子の生成・消滅と見える、既存の制約を受けない高次元空間(K空間)でのエネルギー伝播というものです。

三次元で「時間」と呼ぶ座標軸をも超える伝播のため、どんな遠くでも検出さえできれば今の姿を見ることができます。SF≒宇宙(最後のフロンティア)ですが、本作クリフォードもここから宇宙に関心を進めようとします。遠くを観測できるだけでなく、エネルギー量の説明という点で、宇宙モデルすら覆してしまう超理論を見つけたのですから当然です。

しかしスポンサーでもある政府は軍事転用を要求し続けました。物語中の国際情勢のためでもありますが、仮にそれがなくとも多少圧力が弱くなるだけで、次の戦争のために、次の次の戦争のために要求したことでしょう。そして検出器はレーダーに、放射器は破壊砲「J爆弾」に。

理論から予想されるエネルギー量と、実測値の差に悩んでみたり、本作も科学的視点のあるべき姿を描いています。素粒子物理学で特に特徴的な話題ですが、理論が先行する学者と、実験が先行する学者の違いにも触れられています。他にも応用物理学者を自認する人が、新発見をできる人間がいかに貴重かを語ったり、色々な科学者が登場します。

ブラックホールに関してホーキング放射も出てきます。古典物理学的には光さえも出られないはずのブラックホールから、量子力学的には熱放射があるとする理論で、発表は1974年。この作品は1978年発表ですから新しめの話です。一般向け図書「ホーキング宇宙を語る」がベストセラーになった80年代半ばよりもずっと前。SF作家は最新の科学に敏感です。

さてテーマこそそっちですが、それでもブレインストーミングの様子は本領発揮で、眩しいぐらいのやり取りが繰り広げられています。熱くてたまりません。最後に我慢できなかったのか、モレリやオーブが取り組もうとしていたアイデアが現実になった、ずっと未来のエピローグへ一気に飛びます。なんと舞台はシリウス星系への移民船。たった数ページに夢が詰まりすぎです。

「J爆弾」発動の前日に、クリフォードと大統領シャーマンとのやり取りがあります。西側の兵器も消し去られるだろうとは、読者はもちろん作中のシャーマンも感付いたのでしょうが、そのどんでん返しは圧巻でした。さらにエピローグでそれがハッタリだったかもしれないとひっくり返されるのが、またいっそう痛快です。

ことによると「星を継ぐもの」以上にネタの無駄遣いをしているかもしれません。本作につぎ込まれたガジェットで2~3冊は書けるでしょう。BIACの本来の使い方だけでも行けますし、何より感応通信は台詞一つだけで済まされていますから。オーブのワープ航法はありきたりとしても、モレリのエネルギー伝送は広げられそうです。

戦争のない世界、最初から平和利用だけに邁進して発展した科学技術の姿は、いつかどこかで見てみたいです。21世紀に入ってからというもの、なんだか世界が薄暗いので、輝かしい未来を描く作品は清涼剤になってくれます。

インテグラル・ツリー

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ラリー・ニーヴンの名前を「リング・ワールド」以外で知った人は少数派ではなかろうかと思います。私は「ウォーロック」シリーズで知ったのでした。というか「リング・ワールド」は未読ですな。

なぜ「ウォーロック」かといえば、ゲームブックブームの頃、ファイティング・ファンタジーの最初の掲載誌が「ウォーロック」だったから、という名前だけの繋がりだったりします。本を手に取るきっかけなんて、そんなものでしょう。だからこそ、古本屋で偶然見かけた、表紙がファンタジーっぽい「インテグラル・ツリー」を続いて手に取ったわけです。

「リング・ワールド」はダイソン球ですが、こちらにも近いアイデアがあり、ダイソンツリーと呼ぶそうで。それは彗星上で人間が活動するための籠だというのですが、物質の循環をさせるには資源が乏しすぎて無理そうな気がします。

一方、本作の樹は、大気のあるドーナツ状の惑星軌道を、無重力に近い状態で漂うものとなっています。資源は樹の外にもあり、例えば「池」も漂っており、時々樹と衝突しては洪水をもたらすのです。樹は一つの巨大な環境ですが、永続的なものでなく、それ自身も成長し枯れていく大きな循環が設定されています。

漂う位置で獲得できる資源が変わるため、全ての生物は軌道を修正する能力を持っている...。作中の人間は外来種で、まだ500年程度しか経ていないため、住環境である樹と一蓮托生するしかありません。こうした生物の設定は説得力があります。樹そのものに関しては、巨木より群体の方が進化や生存の説明がしやすい気がします。

作中の人間は、かつて宇宙船から逃げ出した地球人類で、それが文明や科学の多くを失いながら、環境に適応し原始的な社会を形成しています。無重力に合わせて進化し、身体もひょろ長くなっているのです(表紙の青年のように我々のような体型も稀にいる)。受精卵は重力なしでは成長しないことが明らかになっていますが、それも作中で考慮されており、妊婦は汐力を少しでも受ける場所にしばらく居住します。もっとも、受精卵に重力が必要なのは分化過程の話ですので、妊娠が判明する遙か以前に汐力を受けさせないと無駄ですから、死産・畸形出産の確率が高そうです。

疑問を感じるところはあります。樹の両端が反対方向の風を受けるとあります。大気の角速度との相対的なものなのはわかりますが、それなら回転し続けるか、横向きに漂うのではないかと思います。中性子星ルヴォイに対し茶柱のように安定するのが今ひとつ腑に落ちません。
「西は内に、内は東に」は恐らく衛星軌道を航行する話、軌道を下げると角速度が上がり、上げると遅くなる話だと思いますが、何しろ作中の方角がイメージしづらいため、よくわからない部分となっています。

樹は長さが100kmあって、重心ではルヴォイからの引力と遠心力が釣り合っており、無重力です。同じ物体ですから角速度が同一、内側は円周速度が足りず、内側への力を感じるはずです。外側は逆に遠心力が勝り、外側への力を感じるでしょう。これでは何もかもが吹っ飛んでしまうわけですが...何か回収して元に戻す仕組みが必要です。惑星ゴールドブラッドがそれのようですが、作中でもさわり程度のため、気になってしまうと疑問として残ります。

「ウォーロック」でも感じましたが、ニーヴンは人間の描写に関しては妙に生々しいのですね。本作でもいくつかのカップルに子どもができる話が含まれています。それでいて感情の表現は、文化圏が違うためか端折りすぎなのか、わかりにくい部分があり、読みにくさを感じる部分となっています。

終わり方はアメリカ的です。奴隷制への反乱を起こす舞台の名前が「ロンドン」樹とイギリスの地名ですから、ちょっと露骨なところもあります。反乱、漂流、樹の住民たちがかつて乗っていた移民宇宙船の管理AI(立ち位置として一種の神)との接触、その支配からの脱出、奴隷制度のない新天地での新たな生活、ともうSF関係ない話になっています。

舞台設定がSF風味なだけで、大航海時代的な冒険活劇と見るのが正しいのでしょう。元々人間が未開人レベルになっているため、機械類はOパーツ状態で滅多に扱いませんから、本筋をファンタジーとして楽しむことは、著者も望んだことかもしれません。その読み方をする限り、荒唐無稽でおもしろい作品だったと思います。

星を継ぐもの

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今年の7月に亡くなったジェイムズ・P・ホーガン氏の代表作を読んでみました。数年前に入手したままだったのですが、ムアコック再読が一段落したタイミングで割り込ませました。

洋モノSF小説とは縁が薄かった気がします。昨年頃からキャプテン・フューチャーを読んでいますが、他は和モノが少々のみ。というか「SF黄金期」50年代作品は、アシモフすら手を付けていなかったような...。

月の裏側で発見された5万年前の、我々地球人類そっくりの遺体。明らかに異文明の彼は何者なのか、その文明はどこにどうしてあったのか、どこに行ったのか。

余計な要素が一切なく、恋愛の「れ」の字さえない純粋なSFです。登場人物、特にダンチェッカー教授に語らせすぎの傾向はありますが、何しろデビュー作ですからね。読んでわくわくする感覚が大変強く、巻末でもそれを何より評価しようとありました。

各分野の研究班が手がかりを辿る様子、他の研究班の成果との絡み合い、議論、新たな発見、符合する「5万年前」...。この辺は手に汗握るのですよ。翻訳されてなおこのテンポの良さは素晴らしい。

また「チャーリー」の足跡を辿る時の、渓谷から見上げた地球の方向に違和感を覚えるシーンなど、巨大な予兆を感じさせるポイントがちりばめられ、読みながら「まさか」と想像させられるのが刺激的です。推理小説みたいですね。

主人公のハントは冷静な観察眼を持った科学者です。メインは物理学ですが、それに留まらない広い視野の持ち主。上から下に、俯瞰してから細部を詰めるタイプです。科学者としてのその姿勢は見習いたいですが、小説としては後半、そのために少し影が薄い気がします。

相棒となるツンデレのダンチェッカー教授は生物学。この人は視野が狭いようで(そのように筆者にミスリードされ)、子分共は本当に視野が狭いのですが、その実、守備範囲の中で絶対確実な足場から攻めていくだけなのですね。この人も無意識の前提を疑うことができる柔軟さがあります。ハントと逆に、下から上に進むタイプ。同一の特徴は同一の系統樹、というのが信念です。

この作品は1977年に発表されました。アメリカのスペースシャトル計画は既に知られていたと思いますが、比較的最近と言えるその頃でさえ、しかもハードSFと分類される作家の視点でさえ、21世紀半ばまでには木星に達すると考えられていたのですね。ソ連もあるしDECもある。それに引き替え、なんたる混迷の現実か。

ミネルヴァの衛星が地球軌道まで漂い月になったと推測する衝撃のラスト。自分の重力を振り切って小惑星帯になるほどの爆発があったら衛星もろとも粉々だろうとか、ミネルヴァが消失しても対太陽公転は止まらないのだから軌道がずれるとしたら太陽の重力じゃなく対ミネルヴァ公転の惰性だろうとか、装備も心許ない人間が生存できる時間で地球軌道まで漂わないだろうとか、そんな速度で飛んだとしたら止まるには衝突しないとスイングバイで宇宙の彼方だろうとか、ツッコミどころは色々あります。

しかし、そういう揚げ足取りは可能ですが、惑星外来種が来たら「進化の大爆発」で説明するだろうというダンチェッカーの言は印象的ですし(カンブリア紀にもありますね)、5万年前の潮汐変化とネアンデルタール人の滅亡とを一挙に説明しようという壮大な構想力は、背筋がぞくぞくするほど圧巻です。

人類はガニメアンからミネルヴァを受け継ぎ、地球はミネルヴァから人類と月を受け継ぐ。地球外の2つの文明の隆盛と滅亡、我々人類の由来、地球の由来、月の由来、2500万年のスケール。戸惑うほどの大きさです。

我々はルナリアンなので、新ミネルヴァ文明と月面の話はそれで決着です。証拠品は川に投げ捨てられてしまいましたから、ダンチェッカー教授の仮説を裏付けるものは未来永劫発見されないかもしれませんが。一方、旧ミネルヴァ文明であるガニメアンの話は続いているようですね。そちらも追々読んでみます。

ストレイト・ジャケット

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自分探しの旅の果て。榊一郎氏は人間の内面をひたすら視点としています。作品それぞれ表のテーマは違いますが、深層では魂の救済を頻繁に扱っています。

「棄てプリ」ではパシフィカを護るため、シャノンとラクウェルの兄妹が絶対的味方であり続けました。物語もまだ単純でしたね。
「まじしゃんず」では拓未が幼い自己(インナーチャイルド)との対話によって癒しを得、鈴穂は明人との対決の中で自分のトラウマを見出しました。

本作品は、一歩間違えば人間を止めてしまえる「魔法」が溢れた世界で、摩滅しきった中からレイとカペルが自己を取り戻す物語と言えるでしょう。またフィリシスも己との折り合いを付けることができました。
ノーラは登場時には既に決着済みで、物語の結末を先行して示す役割もあったかもしれません。

何しろ血生臭い話でしたから、混迷の中で果てる人物も大勢いました。中でもアル坊は救われなかったレイでしょう。彼に味方が一人でもいれば違ったのでしょうか。

「世界」とは己の外側に認識されるもの全般のことです。認識されないものは世界ではありません。そして認識とは主観そのものです。自己が確立する前に不幸な出来事があると、時として古傷のように痛み続けます。それは主観を歪め、受け取る世界の姿を歪めるのです。

自分のための世界を作る。箱庭を作ってそこに引きこもる。魔族がそれだと、魔力圏が箱庭だとリマは語ります。陳腐と見る人もいるでしょうが、きっとノーラの目に映る魔族はインナーチャイルドそのものだったでしょう。

そのあたりの描写は終盤特に強くなり、アル坊の<鉄巨人>エレンディラは胎内回帰そのものの姿をしていました。自分の世界(魔力圏)をまとうだけでなく胎内に帰る。深層テーマのクライマックスはここだと思います。

アニメは序盤の抽出でしたから、人がいかに絶望し人間を止めるかまでしか描かれていませんでした。今時のアニメ全般に言えますが、物語の結末まで描いてほしいと思わずにいられません。

魔族が世界だとか、何が自分を形作っているかとか、リマが先輩として言葉で語ってしまうので、わかりやすいですが最終上下巻は深みが抑えられています。若年層向けですから仕方ないでしょうか。

レイが死なずに済んできたのは幸運でしょう。アル坊は滅べる玩具を手に入れて破滅してしまいました。レイは死ななかったので機会を得ました。それがカペルです。人の模倣をするに当たり、縁を頼ってきたカペルによって、レイもカペル本人も癒されていきます。

これがもし必然なら、悩める現代人はどうしたらカペル的な存在を得ることができるのか。

一つに、日頃の行ないという気がしなくもありません。何よりまず生きていること、そして敵を作りすぎないこと。ダニエル・レジェーロと戦う前、カペルと接したことから縁が始まっています。無視すればカペルは来なかったのです。善意の死を与えることすらできましたし、その後もレイにはカペルを拒否できる選択肢が何度も存在しています。しかし「殺してくれるかもしれない」という不健全な理由が発端ではあれ、レイはカペルを受け入れているのです。

これが敵も味方もどうでもよくなるほど摩滅した結果だとすれば、悩み抜くことが彼を救ったと言うことができるでしょう。こちらの視点の場合、アル坊がなぜ救われなかったかを考える必要がありますが、違いは世界を憎むかどうかでしょうか。ロミリオも彼のことを半端と評していましたが、とするとカペルがいなければレイは<源流魔法使い>や<資格者>になっていたかもしれません。

<源流魔法使い>は世界を見限りこの世から自ら退場した者たちです。既に人間としては死んでいます。
<資格者>は世界を見限りつつ、その上で復讐を企てた者たち。彼らも死んでいるのですが、怨霊みたいなものでしょうか。共に見た目は人間ですが、人間の鋳型からは外れています。

もちろん、未熟なままに力を振り回す幼児の顕現である魔族、幼児が描く絵のような輪郭しか取れない彼らも当然、人間ではありません。これら三者、全てが人間のなれの果てで、手遅れです。

レイは魔族化する中からリマに救われましたが、自力では立ち直れない事態に自ら陥ったという象徴的な結末でもあります。リマがしたのは呼びかけであって、レイの心が目を覚ましたからこそ救われたのでしょうが、自分を自力で癒しきるのは難しいというメッセージとも読めました。

誰かが誰かの味方になって、一人でも多く救われますように。
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