ストレイト・ジャケット

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自分探しの旅の果て。榊一郎氏は人間の内面をひたすら視点としています。作品それぞれ表のテーマは違いますが、深層では魂の救済を頻繁に扱っています。

「棄てプリ」ではパシフィカを護るため、シャノンとラクウェルの兄妹が絶対的味方であり続けました。物語もまだ単純でしたね。
「まじしゃんず」では拓未が幼い自己(インナーチャイルド)との対話によって癒しを得、鈴穂は明人との対決の中で自分のトラウマを見出しました。

本作品は、一歩間違えば人間を止めてしまえる「魔法」が溢れた世界で、摩滅しきった中からレイとカペルが自己を取り戻す物語と言えるでしょう。またフィリシスも己との折り合いを付けることができました。
ノーラは登場時には既に決着済みで、物語の結末を先行して示す役割もあったかもしれません。

何しろ血生臭い話でしたから、混迷の中で果てる人物も大勢いました。中でもアル坊は救われなかったレイでしょう。彼に味方が一人でもいれば違ったのでしょうか。

「世界」とは己の外側に認識されるもの全般のことです。認識されないものは世界ではありません。そして認識とは主観そのものです。自己が確立する前に不幸な出来事があると、時として古傷のように痛み続けます。それは主観を歪め、受け取る世界の姿を歪めるのです。

自分のための世界を作る。箱庭を作ってそこに引きこもる。魔族がそれだと、魔力圏が箱庭だとリマは語ります。陳腐と見る人もいるでしょうが、きっとノーラの目に映る魔族はインナーチャイルドそのものだったでしょう。

そのあたりの描写は終盤特に強くなり、アル坊の<鉄巨人>エレンディラは胎内回帰そのものの姿をしていました。自分の世界(魔力圏)をまとうだけでなく胎内に帰る。深層テーマのクライマックスはここだと思います。

アニメは序盤の抽出でしたから、人がいかに絶望し人間を止めるかまでしか描かれていませんでした。今時のアニメ全般に言えますが、物語の結末まで描いてほしいと思わずにいられません。

魔族が世界だとか、何が自分を形作っているかとか、リマが先輩として言葉で語ってしまうので、わかりやすいですが最終上下巻は深みが抑えられています。若年層向けですから仕方ないでしょうか。

レイが死なずに済んできたのは幸運でしょう。アル坊は滅べる玩具を手に入れて破滅してしまいました。レイは死ななかったので機会を得ました。それがカペルです。人の模倣をするに当たり、縁を頼ってきたカペルによって、レイもカペル本人も癒されていきます。

これがもし必然なら、悩める現代人はどうしたらカペル的な存在を得ることができるのか。

一つに、日頃の行ないという気がしなくもありません。何よりまず生きていること、そして敵を作りすぎないこと。ダニエル・レジェーロと戦う前、カペルと接したことから縁が始まっています。無視すればカペルは来なかったのです。善意の死を与えることすらできましたし、その後もレイにはカペルを拒否できる選択肢が何度も存在しています。しかし「殺してくれるかもしれない」という不健全な理由が発端ではあれ、レイはカペルを受け入れているのです。

これが敵も味方もどうでもよくなるほど摩滅した結果だとすれば、悩み抜くことが彼を救ったと言うことができるでしょう。こちらの視点の場合、アル坊がなぜ救われなかったかを考える必要がありますが、違いは世界を憎むかどうかでしょうか。ロミリオも彼のことを半端と評していましたが、とするとカペルがいなければレイは<源流魔法使い>や<資格者>になっていたかもしれません。

<源流魔法使い>は世界を見限りこの世から自ら退場した者たちです。既に人間としては死んでいます。
<資格者>は世界を見限りつつ、その上で復讐を企てた者たち。彼らも死んでいるのですが、怨霊みたいなものでしょうか。共に見た目は人間ですが、人間の鋳型からは外れています。

もちろん、未熟なままに力を振り回す幼児の顕現である魔族、幼児が描く絵のような輪郭しか取れない彼らも当然、人間ではありません。これら三者、全てが人間のなれの果てで、手遅れです。

レイは魔族化する中からリマに救われましたが、自力では立ち直れない事態に自ら陥ったという象徴的な結末でもあります。リマがしたのは呼びかけであって、レイの心が目を覚ましたからこそ救われたのでしょうが、自分を自力で癒しきるのは難しいというメッセージとも読めました。

誰かが誰かの味方になって、一人でも多く救われますように。

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