空虚の最近のブログ記事
内容は、ろうの父を持つ娘(高校生ぐらい)が、境遇に悩み、反発し、自殺を図り、最後は父の輸血により助かるというものです。タイかどこか、少し南の方で作られたようでした。
妻は片目だけ泣いていました。音楽が絡まないと涙が片方からしか出ない体質なのだとかで。一方の私は特に何も。
この種のものを見て先に来るのは羨ましさです。自己表現ができるのが、まず羨ましい。その先が成功であれ破滅であれ、その時点でもう「私とは違うまともな人」なので他人事になるようです。
加えて、そこには愛情がありますから。娘の方も反発してこそいますが、反抗期の範疇で、究極的には境遇を憎んでいるに過ぎません。
学校どころか家でさえ教わらなかったことを「常識だ」と親兄弟が罵倒する家庭とは、集団下校時に袋叩きにされても「やり返せ」の一言で済ませる家庭とは、違うのです。
常識に基づいて理性的な反応はできます。涙を誘うような話であり、困難さのある境遇、可哀想な話だとわかりますが、某漫画にあった「知識で知ってるだけだな」というわけです。
感動とか同情とか、自分より低い立場の人間を見るときのエゴイスティックな(或は下手をすればサディスティックな)反応に過ぎないのではないかと思うことがあります。
逆から見るとわかりやすいですが、貴族や富豪がどんなに苦悩しても「贅沢な悩み」の一言で片付けるものでしょう。上記の私の反応も同様と言えます。
しかしまあ、結論ありきででっち上げた理由だとしても、「同じ境遇でも他の兄弟はまともに成長した」って裁判官はバカなんでしょうか。いやバカです。
そもそもギャンブル三昧だの詐欺罪だの精神病だの、全然まともじゃないってのは、番組でも触れられている通りですが、逃げる場所がありさえすれば、確かに負担は軽くなります。「子供は勝手に育つ」というのが正にそれです。
「弱いものがさらに弱いものを叩く」わけで、一番弱い立場の所にしわ寄せが行きますから、一番下の子が酷いことになるのは自明だと思うのですがね。お育ちの良いエリート様にはわからないのでしょう。わからないのに裁くって何の支配者でしょうね。
この番組と同じ証言テープを元にした本が岩波書店から出ていますが、、例えばAmazonのレビューは概ね、つまり他人事です。それが私の絶望の種でもあります。
私はこの番組であるとか、太宰治の「人間失格」だとか、大抵感じるのは親近感です。「この人もか」「ああ、やっぱりそうなるよね」
説明しても理解されることはないし、説明を試みることで自分が奇異な目で見られる事態を招くため、孤立を一人で耐える他はないのです。
現在も続いているにせよ或いは過去だけにせよ、被差別者はこの世のありとあらゆる場所に「壁」が見えています。「まともな世界」というそれ自体も一種の派閥のような「壁」であり、その存在自体が被差別者を苛むのです。
本音を少しでも漏らせばその瞬間から差別が始まるかもしれない。毎日が仮面の陰で、日々の些細な日常全てが演技と孤立。どこにも私が存在できない。
性衝動 -0タイプ
個人よりも、社会のことを考える人間愛型。禁欲主義者や性欲を極度に抑圧している人に見られる反応。しかしあまりこの反応を示す人は多くない。
発作衝動 *+タイプ
自己顕示欲が盛んで、良心的な悪か善のどちらにつこうか迷う良心懐疑的顕示型。自分の良心の懐疑的な傾向を他人に見せびらかして喜んでいる。カイン的悪者が罪を償おうとする時にもあらわれる。
自我衝動 -0タイプ
自己否定がこうじて自分も他人も傷つける破壊型。自分の欲望を抑圧しているために、潜在的な破壊活動が起こる。一般に他人からは厳格な人として見られる。
接触衝動 0*タイプ
人やものに頼るべきか、別れるべきか迷う意志不定型。伝統的な古い観念や両親に従うべきか、反抗すべきか、意志の決定に迷う。執着も離反もできなくて、対象との接触に不幸な結果を招くことが多い。
自己顕示欲は強いと自覚しています。ネット以外で見せびらかすことはありませんが。
カイン的悪者というのは...カインコンプレックスとやらですか。兄弟間で親からの愛情に差別があったと感じることから始まる劣等感。聖書のカインはそれにより弟アベルを殺害、と。なるほど、そういう殺意なら何度も。
抑制的かつ破壊的、他者との接触に迷い。とんでもなく当たってますね。そしてまた、これが当たるということは、見かけから来る印象が如何に強いかということでもありますね。それを実際の評価に組み入れる(顔で判断する)かどうかはともかく。
まあ、わかったところでどうにもならないのですが...。私が欲しいのは道の行方と、道の存在を信じる方法です。
記号化された表現が先入観になっているのか何なのか。幼少の頃に歪んでしまった人間の思考は、そんなに表層的なものではありません。漫画やドラマの見過ぎです。
翼が曲がった紙飛行機のように、ごく自然かつ消極的に、人から離れる方向に流されていくのです。染みついてしまった心理傾向なので、葛藤も何もなく、無意識に方向付けられます。
疑ってかかるのではなく、予めそう確信されています。つまり、世界(主観的認識空間)がそう決定づけられているのです。
これは一種のタブーと言えます。私はよく人殺しに例えますが、この点に関しては私も含めて、普通の人は他者を害する選択肢を避けるはずです。至る所でデスマッチが繰り広げられるバイオレンスな景色は見ないでしょう。恐らくそれに近いのです。
全ての選択肢を平面とすると、タブーは底なしの穴になります。人は穴を避けて毎日その上を歩き回っています。僕らは穴が多いのです。
僕らはそれが危機を招くと刷り込まれ、さらに人生経験から学習してしまいました(※)。人を信じることは、散歩中に障害物を避けるように、ごく当たり前に避けて歩いています。意識した場合、それは「ぶつかると痛い」という現実です。
※この部分にはネガティブな情報が多い環境が作用したと考えられます
全て現実です。そして現実でないらしいことを理性では理解できるけれども、確信する(刷り込み直す)道が全く見出せません。
きっと人間不信の後に利益を求めた場合に、打算的行動ができるようになるのでしょう。ところが私の行動は基本的に全て贖罪なので、利益を求める選択肢はありません。
私が仕事をするのもフリーソフトを公開するのも、全て奥深くにある罪悪感に対する贖罪です。そうし続けて初めて、生きることをしばらく見逃してもらえる、そんな風に確信されています。
必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に、悪い頭と濁った感性でベストを尽くして、それでようやく0に届くか届かないか。いつも溺れています。
私ら人格が歪な人間は、肉体の状態はそれと関係ありませんから、一般的には健常者と見なされています。しかし健全な精神の持ち主と会話をする度に、断絶を痛感せざるを得ないのです。「あなたはやはり向こうの人間なのだ」と。
私は笑えます。微笑むこともできます。自分以外のことならば、いくらだって常人並の反応を返すことができます。常人の振りをするのが私の役割だからです。仮面をかぶったヒキコモリが私という総体です。
高校3年の冬、第一志望の大学で合格発表を見た時、全く嬉しくないことに驚きつつ、喜んだ振りをしました。そうしなければならないような気がしたのです。あらゆる人間への不信と、そう命じられる気配とによって、そうしたのでした。
そうしなければ私は害されると感じていました。嗤われるというのと、仮面をかぶっていることが露見する、という2つだったと思います。
生徒会に参加したのも、アルバム委員に立候補したのも、学年幹事に挙手したのも、全ては頭の中で命じられてのことでした。
或いは、そもそも常人の振りというのが全て、命じられるままに動くということだったかもしれません。それであれば「私は私ではない」という感覚にも説明が付きます。
全てが空虚でした。さも友人であるように振る舞い、笑いながら、そこに断絶を感じ続け、今まさにこの肉体自身が為していることに非現実感を、何をしているのだろうという感じを覚えていました。
※離人感と呼ぶようです
島本和彦は「燃えよペン」で主人公を通じてこう言いました。「お前はそこにいるだろうが!」。
ところが、いないのです。独りでに動く肉体の、頭蓋骨の中に小さな小さな自分がいる感じ。制御を乗っ取られた巨大ロボットの操縦席で、「それがお前の意思か」とでも通信が入るシーンを想像してもらえば、大体合っていると思います。
誰かに逢えば、恐らく私の身体は当時のように振る舞うことができるのでしょう。それは私の記憶ではありません。私の身体を私の意思に反して動かされるのも疲れました。
「あれは私ではない」、表現者が時々口にする言葉です。XのTOSHI氏も言ったようですが、後に新興宗教に入ってしまいました。幸か不幸か私には強力な人間不信が染みついているので、そうした心配はありませんが、根は同じです。
思い返せば人を信用し対等に付き合ったことなど、何度あったことか。小3~4にかけて、新設校への転校を挟んで2人だけ、いたような気もしますが。両方女の子で、しかし片方は苗字も忘れてしまいました。
あれは私ではありません。そのことに当時から感づいていましたが、私は私でいる方法を今も探し続けているのです。
親の過干渉は子供に対する不信が原因ではないか、と考えるようになりました。
私が自発性、感受性といったものを喪失しているような気がすると自覚し始めたのは中学生の頃ですが、その時点で原因の一つと推測していたのは、小学生の頃の夏休み自由研究や自由工作を、オヤにさせられていたということでした。
するのは間違いなく私でしたが、考えるのは半分以上ハハでした。その刹那はやっている気になりますが、できた物に愛着を感じませんでした。先生によく褒められましたが、罪悪感すら感じていました。そういうことをアニに相談したら怒鳴られましたが。
チチに相談したことはほとんどありません。小2の時に離婚騒動(チチ曰くハハのノイローゼによる思い込みとのこと)があり敵と認識されていたためです。家の外は敵だらけということになっていましたから、ハハに対する疑問はアニに行くことになるのですが、必ず怒鳴られました。疑問を持ってはいけなかったようです。軍隊の下っ端ですね。
ハハは「子供を立派に育てなければならない」という義務感が一番大きく心を占めていたようです。期待に添わないことを許容する人物ではありませんでした。あれは幼稚園に入る前だったと思いますが、小さな蜘蛛が腕に上ってきて泣いていると、「なぜ××××(自分で振り払わないのか、といった意の言葉だったと思われる)」と怒鳴られました。
テレビドラマだと「怖かったかーよしよし」みたいなシーンが多いように思うのですが、残念ながら私はそういったハートフルなシーンには全く実感が湧かないし共感もできないのです。結婚して初めてそういった家庭が実在することを知りましたが、私には未だに人を信じる方法がわからない。対等な関係がわからない。
その前年、私の記憶で一番古い3歳の時の出来事ですが、目が覚めると家に誰もいなくて泣いていたことがあります。これが私の人格形成に単独で影響を及ぼしたとは思いませんが、これを土台に上記の蜘蛛の出来事が(或いは覚えていないさらに他の出来事が)あったことで、ハハに対する疑問が芽生えたことは恐らく間違いないと考えています。
子供が何をどう考えているかは関係がなく、結果が必要なのでした。ひょっとすると不信ではなく無関心であったり、純粋に短気なだけかもしれませんが、「できるわけがない」(短気に依るのであれば「自分が待てる間に」)と考えているため、先に道を示しその通りに進むのを見て満足したり、一方的に解決してやった上で叱りつけるのです。オヤの自己満足であり、そこに心は通っていません。
そのハハが近年、振り込め詐欺に何度も遭いかけています。これなどは不信の最たる表れでしょう。私が生まれる前から信用していなかったのですから、今さらどうにもなりません。私のせいにして悲劇のヒロインを演じるのを止められないなら、早く消えてほしいのが本音です。
教師の指導力に問題があったのは確かでしょうが、なぜ登校拒否にならず親に泣きつくこともなく死んだのか。そこのところを考えてみる必要があるのではないでしょうか。
学校が全面的に悪いようなことを記者会見で述べるのが全く間違いとは言いませんが、自分の責任について自覚があるのかどうなのか。
昔、舞台を見ました。自殺した生徒が残した手紙を友人が預かり、それを彼は頑なに見せることを拒み続ける、という内容のものです。
周りの大人は「誰がいじめたか書いてあるんだろう」とばかりに手紙を見ようとするのですが、最後に明かされたその手紙には、ただひたすら今まで世話になった人への感謝の言葉が綴られているだけでした。
ところが親の名前がなかったのです。
あれは小学2年の頃か3年か、集団下校で6年生を含めた複数児童からのいじめを受けていた時期がありますが、母親に「やり返せ」の一言で済まされてしまいました。
味方ではないと認識された人間に、子供は二度と助けを求めることはありません。
適当にあしらわれ、ぶつけられた土が酷く苦かったのを覚えています。私は表情を作ることを覚えました。詮索されて却って傷をえぐられ落胆するぐらいなら、何事もなかったように振る舞う方がストレスが少ないからです。
たとえ家族が一度も教えたことがない事柄でも、知らなければ母と兄の二人がかりで責め立てられました。知らないことは論外で、従って聞くことは同じぐらいの大罪でした。我が子の仇を見るような目で睨まれました。
授業参観で間違えた答えを言ったら(しかしテスト的には誤答だが今考えても筋は通っていた)、授業後に涙声で「うちのバカ息子がご迷惑をおかけしています」と教師に謝罪されました。専業主婦であっても親に教育の責任はないようです。
家族からさえ、教えてもらうではなく横目で盗み取らなければなりませんでした。学校のテストは、事実として難易度は低めですが、100点で当たり前、点が低くて呆れられることはあれ、褒められることはありませんでした。
兄は兄で、母親がこんなですから私をストレスの捌け口にせざるを得なかったのでしょうが、性的な虐待までされました。性を意識するより前のことでした。それとわかったとき、どれだけ傷付いたことか。
ある日、家の玄関前で蜘蛛の巣を払っていると、後ろから来た兄が「何してる」と聞き、蜘蛛の巣だと答えると「そんなものねえよ」と怒鳴られました。手で確かに触れたものさえ否定されたのです。
褒められたこと、あったかな...。あったと思いますが、例えて言えば人質が誘拐犯に褒められても気が安らぐことが全くないようなものです。信頼関係がなければ言葉は伝わりません。次の瞬間怒鳴られるかもしれないのに、どうして喜べるでしょう。
母は元教師で、登校拒否児を無理矢理学校に連れてこさせて卒業させたことを自慢げに語っていました。今なら死んでいるでしょうね。
家族でどこかに行くと私は一人で歩いていました。母がいつもふて腐れた顔をしてずっと後ろを歩き時々道に迷うため、前と後ろと両方を見ながら歩くのです。父と兄は会話をしながら勝手に先を行く。ネグレクト包囲網。
いじめっ子がいじめたことを覚えていないのと同様、やった方は覚えていないのです。
※以下に述べることは特定の宗教を云々したいわけではありません
さて「原罪」という概念があります。人は生まれながらに罪を背負っている、とするものです。
親の罪を子も背負うというのは、関与していない加害者側の子孫なら同意はできませんが、被害者側なら考えてしまうものです。
でも、恐らくそういう話ではありません。宗教は基本的に救うため、赦すためにあるからです。
赦されない罪とは。人間が人間に対して犯したものではなさそうです。ではカミサマに対しての罪?
カミサマが出てくるなら、その結果は実在するのです。赦されない罪が実在するとはどういうことか。原因のない罪とは。
ひょっとして、人格障害(特に境界性)やアダルトチルドレン(AC)を解説する本によく出てくる感覚のことではないかと思うのです。
※境界性人格障害とACは異なる分類によるものなので同一ではありません
幼い頃に理不尽な暴力や叱責を受けていると、自分が自分であること自体に罪悪感を覚えるようになる、というものです。
最初に断り書きを入れたとはいえ中東発祥の特定宗教の話になってしまいましたから、アジアの話題も一つ。
辛らつな人に言わせるとその聖典は、自殺願望を持った王子が自己を納得させるために作った理論武装だ、となるそうな。
もちろん自殺願望も人格障害・ACに頻出の話題であり、こと家柄すなわち社会的プレッシャーも典型的な原因の一つです。
してみると洋の東西を問わず、二千年以上前から人間は家庭環境に悩んできたと言えるでしょう。
そういえば今日は母の日でしたね。
既視感があるのが2人もいるんですよね...。夏木マリと鈴木京香が演じているのが。
私ゃドラマになるレベルのキチガイ家庭で育ったのかと愕然としましたさ。そこそこまともな生活をしていられるようになった自分を褒めたいです。