そうなっている

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人間不信というと、例えば野良犬野良猫が牙を剥くように、「お前も騙すつもりなんだろう」といった感じに、意図的・積極的に他者を排除しようとする心理作用に思われがちですが、それは違います。

記号化された表現が先入観になっているのか何なのか。幼少の頃に歪んでしまった人間の思考は、そんなに表層的なものではありません。漫画やドラマの見過ぎです。

翼が曲がった紙飛行機のように、ごく自然かつ消極的に、人から離れる方向に流されていくのです。染みついてしまった心理傾向なので、葛藤も何もなく、無意識に方向付けられます。

疑ってかかるのではなく、予めそう確信されています。つまり、世界(主観的認識空間)がそう決定づけられているのです。

これは一種のタブーと言えます。私はよく人殺しに例えますが、この点に関しては私も含めて、普通の人は他者を害する選択肢を避けるはずです。至る所でデスマッチが繰り広げられるバイオレンスな景色は見ないでしょう。恐らくそれに近いのです。

全ての選択肢を平面とすると、タブーは底なしの穴になります。人は穴を避けて毎日その上を歩き回っています。僕らは穴が多いのです。

僕らはそれが危機を招くと刷り込まれ、さらに人生経験から学習してしまいました(※)。人を信じることは、散歩中に障害物を避けるように、ごく当たり前に避けて歩いています。意識した場合、それは「ぶつかると痛い」という現実です。

※この部分にはネガティブな情報が多い環境が作用したと考えられます

全て現実です。そして現実でないらしいことを理性では理解できるけれども、確信する(刷り込み直す)道が全く見出せません。

きっと人間不信の後に利益を求めた場合に、打算的行動ができるようになるのでしょう。ところが私の行動は基本的に全て贖罪なので、利益を求める選択肢はありません。

私が仕事をするのもフリーソフトを公開するのも、全て奥深くにある罪悪感に対する贖罪です。そうし続けて初めて、生きることをしばらく見逃してもらえる、そんな風に確信されています。

必死に必死に必死に必死に必死に必死に必死に、悪い頭と濁った感性でベストを尽くして、それでようやく0に届くか届かないか。いつも溺れています。

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