電波からの命令

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高機能な義足でも今のところ随意的に動くものではないので、歩くのは楽でも電車の揺れなどは相変わらず難しいそうですが、形が一見生身のようだと電車で席を譲ってもらえない、なんてぼやきを聞いたことがあります。

私ら人格が歪な人間は、肉体の状態はそれと関係ありませんから、一般的には健常者と見なされています。しかし健全な精神の持ち主と会話をする度に、断絶を痛感せざるを得ないのです。「あなたはやはり向こうの人間なのだ」と。

私は笑えます。微笑むこともできます。自分以外のことならば、いくらだって常人並の反応を返すことができます。常人の振りをするのが私の役割だからです。仮面をかぶったヒキコモリが私という総体です。

高校3年の冬、第一志望の大学で合格発表を見た時、全く嬉しくないことに驚きつつ、喜んだ振りをしました。そうしなければならないような気がしたのです。あらゆる人間への不信と、そう命じられる気配とによって、そうしたのでした。

そうしなければ私は害されると感じていました。嗤われるというのと、仮面をかぶっていることが露見する、という2つだったと思います。

生徒会に参加したのも、アルバム委員に立候補したのも、学年幹事に挙手したのも、全ては頭の中で命じられてのことでした。

或いは、そもそも常人の振りというのが全て、命じられるままに動くということだったかもしれません。それであれば「私は私ではない」という感覚にも説明が付きます。

全てが空虚でした。さも友人であるように振る舞い、笑いながら、そこに断絶を感じ続け、今まさにこの肉体自身が為していることに非現実感を、何をしているのだろうという感じを覚えていました。

※離人感と呼ぶようです

島本和彦は「燃えよペン」で主人公を通じてこう言いました。「お前はそこにいるだろうが!」。

ところが、いないのです。独りでに動く肉体の、頭蓋骨の中に小さな小さな自分がいる感じ。制御を乗っ取られた巨大ロボットの操縦席で、「それがお前の意思か」とでも通信が入るシーンを想像してもらえば、大体合っていると思います。

誰かに逢えば、恐らく私の身体は当時のように振る舞うことができるのでしょう。それは私の記憶ではありません。私の身体を私の意思に反して動かされるのも疲れました。

「あれは私ではない」、表現者が時々口にする言葉です。XのTOSHI氏も言ったようですが、後に新興宗教に入ってしまいました。幸か不幸か私には強力な人間不信が染みついているので、そうした心配はありませんが、根は同じです。

思い返せば人を信用し対等に付き合ったことなど、何度あったことか。小3~4にかけて、新設校への転校を挟んで2人だけ、いたような気もしますが。両方女の子で、しかし片方は苗字も忘れてしまいました。

あれは私ではありません。そのことに当時から感づいていましたが、私は私でいる方法を今も探し続けているのです。

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