親の過干渉は子供に対する不信が原因ではないか、と考えるようになりました。
私が自発性、感受性といったものを喪失しているような気がすると自覚し始めたのは中学生の頃ですが、その時点で原因の一つと推測していたのは、小学生の頃の夏休み自由研究や自由工作を、オヤにさせられていたということでした。
するのは間違いなく私でしたが、考えるのは半分以上ハハでした。その刹那はやっている気になりますが、できた物に愛着を感じませんでした。先生によく褒められましたが、罪悪感すら感じていました。そういうことをアニに相談したら怒鳴られましたが。
チチに相談したことはほとんどありません。小2の時に離婚騒動(チチ曰くハハのノイローゼによる思い込みとのこと)があり敵と認識されていたためです。家の外は敵だらけということになっていましたから、ハハに対する疑問はアニに行くことになるのですが、必ず怒鳴られました。疑問を持ってはいけなかったようです。軍隊の下っ端ですね。
ハハは「子供を立派に育てなければならない」という義務感が一番大きく心を占めていたようです。期待に添わないことを許容する人物ではありませんでした。あれは幼稚園に入る前だったと思いますが、小さな蜘蛛が腕に上ってきて泣いていると、「なぜ××××(自分で振り払わないのか、といった意の言葉だったと思われる)」と怒鳴られました。
テレビドラマだと「怖かったかーよしよし」みたいなシーンが多いように思うのですが、残念ながら私はそういったハートフルなシーンには全く実感が湧かないし共感もできないのです。結婚して初めてそういった家庭が実在することを知りましたが、私には未だに人を信じる方法がわからない。対等な関係がわからない。
その前年、私の記憶で一番古い3歳の時の出来事ですが、目が覚めると家に誰もいなくて泣いていたことがあります。これが私の人格形成に単独で影響を及ぼしたとは思いませんが、これを土台に上記の蜘蛛の出来事が(或いは覚えていないさらに他の出来事が)あったことで、ハハに対する疑問が芽生えたことは恐らく間違いないと考えています。
子供が何をどう考えているかは関係がなく、結果が必要なのでした。ひょっとすると不信ではなく無関心であったり、純粋に短気なだけかもしれませんが、「できるわけがない」(短気に依るのであれば「自分が待てる間に」)と考えているため、先に道を示しその通りに進むのを見て満足したり、一方的に解決してやった上で叱りつけるのです。オヤの自己満足であり、そこに心は通っていません。
そのハハが近年、振り込め詐欺に何度も遭いかけています。これなどは不信の最たる表れでしょう。私が生まれる前から信用していなかったのですから、今さらどうにもなりません。私のせいにして悲劇のヒロインを演じるのを止められないなら、早く消えてほしいのが本音です。
コメントする