八王子で少年犯罪がありました。いつもながら不思議なのは、犯人が「おとなしい子」というのが驚きをもって語られることです。
本当におとなしい子がいる可能性は否定しませんが、自己表現していないだけという方が多いのではないかと思います。それが下手なのか、抑圧されているのか、後者であれば事態は深刻です。
「おとなしい子」の犯罪が目立ち始めて何十年になるでしょうか。未だに「おとなしい」=「安心」という構図が存在していることに呆れます。
多発しているのなら、もう原因を個人に帰するべき次元を超えているのです。それが組織を考えるということで、もしドラあたりでも触れられているのではないでしょうか。
地域社会が崩壊している以上、もう子どもは独りでには育ちません。日本の伝統的教育は非常に抑圧的です。家庭の外に発散できる場所があったればこそ、まともに育っていました。
しかし現代の社会不信・相互不信は他者の関与を許しません。家庭の外を許さず、また家庭の中が猜疑心に溢れているとすれば、潰れて当然でしょう。
子どもには全てが平等に見えています。つまり、親が他者を排除することが、いつか自分が排除されるという恐怖になるのです。
少年犯罪の根本原因は間違いなく大人と社会にあります。他者を疑ってかかる姿を見て子どもが育ったのに、どこに正常な心が生まれる余地があるでしょうか。
道はきっと愛から始まるのでしょう。All You Need Is Love.
あなたはあなた自身が考えていますか?
私は私の脳に考えてもらっている感じがします。ひらめき待ちかもしれませんが、情報を一通り覚えて検討して放置すると、しばらくして結論が出てくるのです。
これは技術ではないので、頭の回転が落ちたら使い物にならなくなると思っています。検討する時はノートに書き出したり、ツールも活用してはいるのですが、果たして自分でない感じがする脳に頼っていていいものか、と。
何のことはない、エッセイなどでもよく聞く話ですが、なぜか自分がそうしてはいけないと感じているようです。
時間がもたらすものを、私の人格がよく認識していないからかもしれません。時間は情報をそぎ落とし、忘却と同時に整理もしてくれるのですが。
何か、それが悪いことであるように思っている節があります。私の全てを私の人格が持たなければならない、私の認識世界に置かなければならない、という強迫観念です。これは思いつきを否定することになるでしょうか。
日常やバラエティ番組などで予想外のことがあり笑う。そこは問題ありません。しかし自分に対しては許さない。他人に優しく自分に厳しいとは、一種の劣等感から来るものであって、世界の断絶のようにも思います。
時間のことを知っています。でもそれは自分とは別の話だ、と。世界(自分の周辺全て)と自分とのこの断絶は、どうしたら繋ぐことができるのか。それが悩みの種なのです。
原因究明は簡単だと思うのです。対応策に比べれば。
ある人が大けがを負っているとしましょう。
原因は?信号無視で横断したこと。
対策は?信号を守ること。
では大けがの治療は?
現在はいつだって複雑怪奇です。
見ていて過去を思い出させる辛い作品でしたが、何らかの歪みを抱えている人しかいないドラマです。
土木作業員ヒロインはまだ不明ですが、家族4人全員、隣人女性、姉の姑、少なくとも6人はメンタルが歪んでいます。
ポイントは母親だと見ました。常識的には、献身的な故にノイローゼになった被害者と受け取られたと思いますが、あれは過干渉です。これも子どもの人格を無視する行為であって、家庭を顧みない父親と同レベルに害悪なのです。
主人公は自我が希薄です。それ故に必死に自己中心的になって脆弱な自己を護るのです。あれはプライドなんてものではありません。プライドとは裏付けある客観的で高い自己評価です。何事にも真剣にならず「そこそこ」の人生だったのは、一歩引かなければ耐えられなかったからに他なりません。
父親は、団塊世代の典型的な悪い例です。傲慢、頭ごなしの説教、それによる全力での人格否定。竹中直人の演技が光ります。
姉、本人はまだ充分に描かれていませんが、わが子に接する態度は、その父親に酷似しています。結果だけを求めるダメ親です。
これらは、本人にのみ責任を帰せるものではありません。社会が再生産をさせ続けてきた、規模の大きな病理です。しかし社会は簡単には変わりませんので、個々人が自分を癒さなければなりません。認識され対応法が確立しさえすれば、それも大した問題ではないのですが、「いきなりキレる若者」などと思われている間は何も進歩ありません。
広告には「家族、やりなおし」と書かれていました。全員の病巣とその回復を描ききるなら、素晴らしい作品になるだろうと思います。もし万一、主人公と父親だけが悪いとするなら、偏見を助長する唾棄すべき駄作です。社会派作品は伝える側の姿勢も問われます。
ところで、日常生活に悪影響が出るレベルで入院させずに帰すでしょうか?病院の対応は疑問がありました。
自分探しの旅の果て。榊一郎氏は人間の内面をひたすら視点としています。作品それぞれ表のテーマは違いますが、深層では魂の救済を頻繁に扱っています。
「棄てプリ」ではパシフィカを護るため、シャノンとラクウェルの兄妹が絶対的味方であり続けました。物語もまだ単純でしたね。
「まじしゃんず」では拓未が幼い自己(インナーチャイルド)との対話によって癒しを得、鈴穂は明人との対決の中で自分のトラウマを見出しました。
本作品は、一歩間違えば人間を止めてしまえる「魔法」が溢れた世界で、摩滅しきった中からレイとカペルが自己を取り戻す物語と言えるでしょう。またフィリシスも己との折り合いを付けることができました。
ノーラは登場時には既に決着済みで、物語の結末を先行して示す役割もあったかもしれません。
何しろ血生臭い話でしたから、混迷の中で果てる人物も大勢いました。中でもアル坊は救われなかったレイでしょう。彼に味方が一人でもいれば違ったのでしょうか。
「世界」とは己の外側に認識されるもの全般のことです。認識されないものは世界ではありません。そして認識とは主観そのものです。自己が確立する前に不幸な出来事があると、時として古傷のように痛み続けます。それは主観を歪め、受け取る世界の姿を歪めるのです。
自分のための世界を作る。箱庭を作ってそこに引きこもる。魔族がそれだと、魔力圏が箱庭だとリマは語ります。陳腐と見る人もいるでしょうが、きっとノーラの目に映る魔族はインナーチャイルドそのものだったでしょう。
そのあたりの描写は終盤特に強くなり、アル坊の<鉄巨人>エレンディラは胎内回帰そのものの姿をしていました。自分の世界(魔力圏)をまとうだけでなく胎内に帰る。深層テーマのクライマックスはここだと思います。
アニメは序盤の抽出でしたから、人がいかに絶望し人間を止めるかまでしか描かれていませんでした。今時のアニメ全般に言えますが、物語の結末まで描いてほしいと思わずにいられません。
魔族が世界だとか、何が自分を形作っているかとか、リマが先輩として言葉で語ってしまうので、わかりやすいですが最終上下巻は深みが抑えられています。若年層向けですから仕方ないでしょうか。
レイが死なずに済んできたのは幸運でしょう。アル坊は滅べる玩具を手に入れて破滅してしまいました。レイは死ななかったので機会を得ました。それがカペルです。人の模倣をするに当たり、縁を頼ってきたカペルによって、レイもカペル本人も癒されていきます。
これがもし必然なら、悩める現代人はどうしたらカペル的な存在を得ることができるのか。
一つに、日頃の行ないという気がしなくもありません。何よりまず生きていること、そして敵を作りすぎないこと。ダニエル・レジェーロと戦う前、カペルと接したことから縁が始まっています。無視すればカペルは来なかったのです。善意の死を与えることすらできましたし、その後もレイにはカペルを拒否できる選択肢が何度も存在しています。しかし「殺してくれるかもしれない」という不健全な理由が発端ではあれ、レイはカペルを受け入れているのです。
これが敵も味方もどうでもよくなるほど摩滅した結果だとすれば、悩み抜くことが彼を救ったと言うことができるでしょう。こちらの視点の場合、アル坊がなぜ救われなかったかを考える必要がありますが、違いは世界を憎むかどうかでしょうか。ロミリオも彼のことを半端と評していましたが、とするとカペルがいなければレイは<源流魔法使い>や<資格者>になっていたかもしれません。
<源流魔法使い>は世界を見限りこの世から自ら退場した者たちです。既に人間としては死んでいます。
<資格者>は世界を見限りつつ、その上で復讐を企てた者たち。彼らも死んでいるのですが、怨霊みたいなものでしょうか。共に見た目は人間ですが、人間の鋳型からは外れています。
もちろん、未熟なままに力を振り回す幼児の顕現である魔族、幼児が描く絵のような輪郭しか取れない彼らも当然、人間ではありません。これら三者、全てが人間のなれの果てで、手遅れです。
レイは魔族化する中からリマに救われましたが、自力では立ち直れない事態に自ら陥ったという象徴的な結末でもあります。リマがしたのは呼びかけであって、レイの心が目を覚ましたからこそ救われたのでしょうが、自分を自力で癒しきるのは難しいというメッセージとも読めました。
誰かが誰かの味方になって、一人でも多く救われますように。
ITは果たして人間を幸せにしているのだろうかと疑問に思っています。不況の閉塞感による妄想かもしれませんが。
かつて産業革命の際にもそう考えた人は多かったのかもしれませんが、今は何やら一線を越えている気がするのです。一線とは生物としての人の能力といったもの。
例えて言うと、少年兵が対物ライフルを持たされているような。素手がナイフになり、小さな拳銃になる程度なら問題はないのですが、体格や体力に合わない武器を持たされて、振り回されているような感じです。
金融工学もその一つに見えますし、ITも、それによる情報の氾濫も、人間の身の丈に合った力なのだろうか、と。
生まれた時から馴染んでいれば、ひょっとすれば適応できるのかもしれませんが、それにも限界はあるでしょう。でなければ枯れ葉剤で奇形児が生まれることはないのです。
ITがもたらす効率化についても、ひょっとしたら失業者を増やしているだけかもしれません。数として雇用は創出されているにせよ、弾き出されるような非ITの人たちの受け皿は皆無でしょう。
それというのも技術が先鋭化しているためで、多くの人に理解不能な場所が発展している状態です。無関係ならまだマシですが、実害があるのでは、遠くのサーキットから排気ガスだけが漂ってくるような、困った状態と言えます。
狂ったように幸せをかき集めても、未来からの前借りに過ぎないのかもしれない、とさえ考えてしまいます。バベルの塔が崩れたのは神の手ではなく自重によってだったのかもしれない、と。
農村がいいなどとは言いません。馴染める人・馴染めない人はあらゆる局面にいるのであって、その割合は多少変化させられるにせよ、万人が馴染める方法はこの世には恐らくないのでしょうから。
しかし日本のように一極集中とグローバル化が同時進行すると、とてつもなく住みづらい不寛容な社会ができるようには思います。